難病指定の間質性肺炎が悪化し、一人暮らしが困難になって昨年2月に老人ホームへ入居した母。今年に入ってから一度心臓が止まったものの、それでもコロナのせいで病室へ入れませんでした。

私はいつ連絡が来るか不安な日々を過ごし、母が苦しまないよう近所の神社へ毎朝お参りしてしてました。そして2022年2月22日、雪がチラチラ舞い散る日に亡くなりました。

亡くなる1ヶ月前に地元の病院から専門医のいる大学病院へ移ったんですが、母の症状に対して言われた事を兄から聞かされました。

「よく我慢してホームの生活してましたね。普通の人ならこの二酸化炭素の数値かなり辛いですよ」

ジワジワずっと数値が上がっていっただけに、母もあまりしんどいと言わなかったけど、実際どれくらい苦しんでいたのだろう。やっと苦しみや不安から開放されるね。

亡くなった母の頬には、酸素吸入のチューブ跡がくっきり残ったままでした。そしてマスクの重みから鼻背も黒ずんしまい初めて見る母の痛々しい顔。ただ安らかな表情をしてたのが救いです。

老人ホームでは自力で立っていられなくなった母をお世話して頂きありがたかったけど、上げ膳据え膳の環境、大好きだった陶芸もできなくて、軽く認知症になってしまったのが残念でなりません。

葬儀は親族だけ、8人の家族葬でした。兄以外の親戚はもともと関西に住んでおらず、みなさんご高齢。車椅子生活や入院などしてて移動が無理、しかもまだまだコロナ蔓延中…

通夜は私と夫、喪主の兄と兄嫁、甥っ子たち2人に、近くに住む兄嫁のご両親だけです。母の友達も高齢なので事後報告にしたことから来ることなく、45分で終了。

葬儀の1時間前に席入りしたものの親戚付き合いが薄いため、兄家族とはいえ2〜3度しか会ってない人たちとぽつりぽつりと話し、長くて重い時間となりました。

翌日の葬式にはご近所の母友おばさまが1人来てくれました。公民館で母と3人だけで茶道を習っていただけに、出会えたことが嬉しい。当時の事を軽く語り合い、納棺で一緒に花を飾りました。

母が毎回「どうやってふくさを畳むんだっけ?」と毎度と聞いてきて、みんな所作を色々忘れて笑い合ってたっけ。あの頃には戻れないんだね…

60代から難病の間質性肺炎を患いつつ、70歳で美大生となった母。半世紀年下の子とキャンパスライフを楽しみ、一昨年まで専攻科生として陶芸を続けました。女流陶芸展などて賞をとったり、我が母ながらかっこよかったです。

老人ホームに入居する際、どうしても入選作品3つは処分したくない!と言って、その1つを玄関に飾らせてもらってたのですが、母が亡き後も使わせて欲しいと言ってくださったので、ずっと作品は残るそうです。

母の陶芸作品

「何事も始めるのに遅すぎるということはない、いくつになっても頑張ることはできる」そういうことを実際やり、教えてくれた母。

ほんと80歳までありがとう、そしておつかれさま。